All you need is an iron will. 最強の二人が見据える夢、そして真実の物語 山本&稲田

挑戦の始まり
トライアスロンに繋がる第一歩

― 水泳や陸上競技を始めたのはいつ頃ですか?

(山本)小学校に入るよりも前に水泳を始めて、中学卒業までずっと水泳部でした。高校進学後も続けるつもりでいたんですけど、通っていた高校には水泳部がなくて。次は何をやろうかなと思ったときに、クラスメイトのほとんどが陸上部だったという理由で陸上部を選びました。 (稲田)妻が難病にかかり、そばについていないといけなくなって、私が60歳のとき会社を辞めました。自宅で介護をしていたんですが、家にばかりいると体がなまるので、近所にできたスポーツジムに行ってみたんです。そこにプールがあって、健康維持のために水泳を始めることにしました。最初はあまり泳げなかったんですけど、インストラクターにイチから教えてもらって、マスターズに出場できるくらい泳げるようになりましたね。

― トライアスロンを始めたきっかけは?

(山本)トライアスロンとの出会いは、私が18歳のときでした。地元愛知のテレビ番組でトライアスロンレースの放送をたまたま観て「もしかしたら自分はこの競技で1番になれるかもしれない」という気持ちが自然と湧いたんです。大会のコースや、スイム1.5km、バイク40km、ラン10kmという距離をみて、勝てるかもと思いました。これまで水泳と陸上をやっていたので、テレビの向こうの選手のタイムと自分のタイムを比較して、「もしかしたら自分もテレビに映れるんじゃないか」と思ったんです。それがきっかけで、その翌年にトライアスロンを始めました。 (稲田)ジムのプールで泳ぎ始めてから4年後、64歳のとき、茨城県下妻市にある砂沼で開催されたアクアスロンの大会に出場したんです。スイム1.5km、ラン10kmなんだけど、水泳の仲間と一緒に面白半分で参加したら、なんとかゴールできちゃった。ランの練習はしていなかったけど完走できて、スイムとランはできたという自信がつきましたね。そこから5年間、69歳までその大会に連続出場しました。

― アクアスロンからトライアスロンへはどういったきっかけで?

(稲田)アクアスロン大会の参加者の大半が、サイクルウェアとヘルメットを被ってバイクで会場まで来ていたんです。それを見て「かっこいい!」と思って、69歳だったけどバイクを買っちゃった(笑)。実際に乗ってみると、風を切って走るのが楽しかったですね。とにかくバイクに乗ってみたかっただけで、このときはトライアスロンに挑戦するなんて考えてもみなかった。だけどこの翌年、たまたま幕張でトライアスロンの大会があると知り、3種目に挑戦してみるのも面白そうだなと思い、勢いでエントリーしました。

それぞれの
トライアスロンデビューと軌跡

― トライアスロンのデビュー戦はどうでしたか?

(稲田)その幕張で開催された大会が私のトライアスロンデビューです。70歳のときですね。制限時間ぎりぎりではあったけど、ビリではなく完走できたんです。それまで怒られると思って妻には内緒にしていたのですが、大会後に報告したら「私の分まで頑張ってね」と励ましてくれました。その3ヶ月後に妻が亡くなり、そこから3ヶ月くらいの記憶がまったくと言っていいほどありません。でも独り住まいだし、このままではいけない。トライアスロンをやる以外ないなと思って奮起しましたね。 (山本)トライアスロンデビューは、大学3年生のとき、愛知県の知多半島で以前開催されていたにっぽん音吉トライアスロンという大会でした。スイムは2、3番で上がったけど、その後バイクでもランでも抜かれて、2時間25分でのゴールでした。思い描いていた『スイムトップで上がってバイクで逃げて、ランで逃げ切る』みたいなことがまったくできなかった苦いデビュー戦でしたね。

― デビュー後、プロになるまではどのような道のりでしたか?

(山本)デビュー戦の結果がかなり悔しくて、大学4年生で同じ大会で優勝することと、インカレ優勝を目標にひたすら練習に打ち込みました。結果、デビュー戦と同じ大会で優勝。インカレはスイム、バイクまではトップ、最後のランで惜しくも抜かれて2位でした。インカレで優勝はできませんでしたが、世界選手権のエイジグループの日本代表に選ばれて、22歳のときに初めて世界選手権に出場したんです。その大会で日本人トップの13位という成績を収めて日本に帰って来たら、自分でもびっくりするぐらい様々な企業からプロ契約のオファーをもらいましたね。世界選手権が終わったら就職活動をしようと思っていたのが、そこでプロとしてトライアスロンをやっていくという選択肢が生まれたんです。大学卒業と同時にプロ契約を結んで、1996年からプロとして17年、その後はコーチをしたりして今に至ります。

― デビュー後も積極的にレースに参加されたようですね。

(稲田)デビュー後はすっかりトライアスロンにハマっちゃって、年に4回ほどショートに出るようになりました。それを4年ほど続けて74歳のとき、今度はミドルに出てみようかと面白半分で挑戦したら、制限時間ぎりぎりではあったけど完走できちゃった。これは佐渡Bもいけるかもと、翌年佐渡の大会に挑戦してみたら、こちらは年代別で優勝できちゃったんですよ。私が最高齢の出場者だったけど、年齢の割に意外とできるなと思いましたね(笑)。
*オリンピックディスタンス(S:1.5km,B:40km,R:10km)
*佐渡国際トライアスロン大会Bタイプ(S:2km,B:108km,R:21km)

大きな挫折
悔しさの先にある新たなスタート

― これまでに大きな挫折はありましたか?

(山本)1番大きな挫折は、オリンピックの舞台に立てなかったことです。2000年のシドニー、2004年のアテネ、2008年の北京オリンピックの代表選考会はなかなかピークが合わず、本当に悔しい思いをしましたね。1996年にプロになって、トライアスロンがオリンピック種目になったのが2000年。その選考会で負けたときには、もうこれでトライアスロンを終わりにしようという気持ちがありました。選考会後3ヶ月ぐらいトライアスロンをまったくやらない生活をしたんです。周りからは「オリンピック残念だったね」と言われることもあったけど、「次は何に出るの」と言ってくれる人がたくさんいました。オリンピックがダメだったからもう終わりではなく、次のレースを楽しみにしてくれている人がほとんどで、これはやっぱりレースに出なきゃいけないなと思いましたね。自分が走ることで楽しんでくれたり、喜んでくれる人がいることに気付かせてもらいました。それ以降、トライアスロンをやめたいと二度と思わなかったのは、このときの気付きがあったおかげです。今振り返れば、挫折があったからこそここまで続けてこられのだと思います。 (稲田)ショートからミドルに挑戦し、佐渡Bでエイジ優勝した私は、翌年76歳のときに長崎県五島市で開催されたIRONMANレースに初めて出場しました。そしたら見事に失敗してしまい、制限時間に間に合わないからと、ランの途中で失格になってしまったんです。あまりのショックに立ち上がれず、しばらく座ってうなだれていましたね。年だから仕方がないと思う反面、なんとしてでもIRONMANを完走したいという思いが強くなりました。完走できなかったことが悔しくて悔しくて。それをきっかけにIRONMANにのめり込んでいきました。

IRONMANレースで完走したい。
強い思いが2人を引き合わせた

― 稲田さんと山本さんの出会いを教えてください

(稲田)初のIRONMANで挫折を味わった私は、人からの勧めで稲毛インターナショナルトライアスロンクラブの門を叩きました。実際に行くまでには、オリンピック選手がいるようなクラブに自分のような高齢者が参加するのはどうかと悩みましたが、それまで全部我流でやってきて、今まで通りのことをしてもまた同じ結果になるかもしれないと思い、一歩踏み出すことにしたんです。山本淳一さんとはこのクラブで出会いました。テレビで見たことのある有名な選手で、雲の上の人だと思っていたけど「一緒にバイク走りますか」と声をかけてくれて。面倒見よく熱心に指導してくれましたね。
*オリンピアン上田藍選手も所属の名門トライアスロンクラブ

― クラブに入ってみてどうでしたか?

(稲田)クラブに入ってみたら、これまで自分がやっていたトライアスロンとはまったく違った世界を見ることができました。他の選手たちの取り組みを見て感動して、これだけ頑張れば、自分ももっとできるようになると思いましたね。実際に技術的なことを習い、特にバイクは劇的に速くなったんですよ。人からのアドバイスを毎回の練習で試してみるたびにタイムが縮んだりと結果に表れて、練習が本当に楽しくなりました。コーチングを受けて、他の選手と同じメニューをこなしていくうちに、精神的にも肉体的にも進化を遂げました。私はこれまで平凡な人生を送ってきたので、ここまでひとつのことに夢中になって取り組んだことはありませんでした。自分の人格が変わったような、生きがいを見つけたような、こんなに面白い競技があるのかと夢中になりましたね。

選手の挫折とコーチの挫折。
2人の物語はここから始まった

― ある大会出場を機に、二人三脚で世界を目指すようになったと伺いました

(稲田)2011年、79歳のときにKONAに初めて出場したんですけど、残念ながらスイムでリタイアという結果に終わりました。レース当日、精神的にナーバスになり、その不安からスタート直前に必要以上に食べたり飲んだりしてしまったことが敗因です。とても悔しくて、自分を恥じて、深夜に山本さんに電話しましたね。その翌年もKONAに出場することができたのですが、山本さんは私が同じ失敗を繰り返さないように監視しに行くと言って、わざわざハワイまで帯同してくれたんです。そこからずっと毎回来てくれて、この関係が始まりました。
*IRONMAN World Championship

(山本)私は2009年から2012年までの4年間、稲毛インターでコーチをしていましたが、1人の選手(稲田さん)を完走させることができませんでした。選手を大会に送り出して、その人がリタイアしたというのはとても悔しくて、自分のコーチとしての実力不足を感じましたね。チームのみんな、大勢多数をコーチングするのももちろんですが、指導をしていたうちの1人でも完走させることができないというのは、コーチの指導力のなさが大きな割合を占めると思いました。1人を見ることができないのに100人を見ることはできない、という思いが自分のコーチングの根幹にはあります。翌年2012年ハワイのIRONMANで、稲田さんは80歳で優勝しました。この年は私もハワイに帯同して、事前のトレーニングや食事などをサポートしたんです。そこから毎回帯同するようになり、この関係が始まりました。帯同することによって自分の視野が広がり、コーチとして独立する大きなきっかけになった大会でしたね。

強い絆の2人が語るお互いへの本音

― 稲田さんにとって山本さんはどんな存在ですか?

(稲田)山本さんとは親、兄弟以上の関係ですよ。山本さんとの関係で言うと、最近特に印象に残っているのは2022年のIRONMAN70.3 Honuです。彼も選手として登録していて一緒に出る予定だったのですが、大会2日前の夜、彼は突然「やっぱり今回、僕はレース出ずに稲田さんのサポートに徹する」と言うんです。ゼッケンナンバーも貼ってあるしヘルメットも用意しているのに「僕は出なくていい。僕は稲田さんのアテンドのために来ているんだから」って言うの。もうこれには泣いちゃいましたね。少なくとも9年連続KONAに出場していますけど、毎回必ずついて来てくれて、彼が細かなことまで調整して指示をくれるので、それを守っていればなんとかできるという安心感があります。海外遠征だけでなく、日本に帰って来てからもAWで一緒に練習させてくれてね。彼がいなければ、今の私はいなかったですよ。彼がいなければ、私はトライアスロンをとっくの昔にやめています。1人でなんて絶対にあり得ないですね。
*Athlete Works(山本淳一さんが主宰のトライアスロンクラブ)

― 稲田さんとは長いお付き合いだと思いますが、近くで見ていて衰えを感じることはありますか?

(山本)稲田さんと出会ってからもう15年ぐらいになります。稲田さんは80歳になってもあまり衰えを感じなかったけど、85歳を過ぎてからは少しずつ感じることも増えましたね。特にコロナの影響は大きくて、レースがない3年間はとても大きな痛手でした。トレーニングはしているんですけど、レースがないと人ってこうやって弱くなっていくんだというのを感じましたね。刺激の足りなさが如実に表れていて、レースがあるのとないのでは、練習やトレーニングの身の入り方がまったく違うんです。

― 稲田さんのコーチングをする上で年齢差による大変さはありますか?

(山本)実の親より年上で、自分の父親とも海外に行ったり、ましてや1ヶ月も寝食を共にすることもないので、改めて不思議な関係ですよね(笑)。大変なことで言えば、記憶力の低下を感じることでしょうか。今まで普通にできていたことが急にできなくなってしまったりね。あとは昭和一桁代の生まれなので、頑固な部分が年々出てくるのは、一緒にいる時間が長くなればなるほど感じます。世間一般的にもおじいちゃんは頑固な人が多いと言うけど、稲田さんも例外なく頑固なんだみたいな(笑)。でも別に親子ではないから受け流せるし、トレーニングに関してはコーチとしての立場から「これはきちんとやらなきゃダメだよ」と言えるので、いい距離感でいい関係だと思いますよ。

― コーチとしてどこまでサポートするかの線引きはありますか?

(山本)全部私がお膳立てをして、稲田さんはレースだけ、トレーニングだけをするというのは違うと思っています。自分で自転車も組み立てられない、着替えも準備も自分でできなくなったら、それはもうトライアスロンをやりたいのとは違うんじゃないかと思うんですね。だからもし稲田さんが自分でバイクが運べなくなったら、「それはもうトライアスロンできないのと一緒だよ」と言うと思います。だからこそ遠征に行くときには、自転車の組み立ても自分でやってねと言っているんです。もちろん私がやったほうが圧倒的に早いし、時間の使い方で言ったら効率は悪いかもしれないけど、稲田さんがトライアスロンを大好きだからこそ、自分でできる範囲は自分でやった上で、トライアスロンに取り組んでほしいんです。これができなくなったら、もうトライアスロンじゃないんですよね。すべてにおいてあれこれ私が手を出さないのは、そういう理由です。

やればなんでもできる、
やらなければなんにもできない。
いつでも2人は
同じ方向を見て走り続ける。

― 今後の目標を教えてください。

(山本)昨年、世界選手権で2度目の世界チャンピオンのタイトルを獲るという目標を達成して、今年は新たなことにもチャレンジしたいと考えています。トライアスロン歴31年目の初挑戦は、オフロード版トライアスロンと言われているエクステラに決めました。コーチとしての目標は、稲田さんをもう一度KONAの舞台に立たせたいということです。まずは今年6月のIRONMAN Cairns完走を目指し、その先のKONAも見据えていきたいですね。91歳でIRONMAN 完走はそれ相応の覚悟と、フィジカル&メンタルが必要なので、しっかりとサポートしていきたいと思います。 (稲田)目標はKONAで完走すること、できれば記録の更新をしたいですね。その前に4月の石垣島と6月のIRONMAN Cairns完走を目指します。今後どうなるか分からないけど、とにかく今できるだけのことをやろうと思っています。今年91歳になり、体力的な衰えを日々感じるんです。正直、レース中も練習中にも、なぜこんなに苦しいことをやっているんだと思うこともありますよ。でも、2015年のKONAのことを思い出すと頑張れるんです。この年のKONAは制限時間が16時間50分で、いつもより10分短かった。何度も転倒しながらやっとゴールしたけれど、制限時間をわずか5秒オーバーして完走と認められませんでした。でもこのシーンを見た世界中の人から激励のメッセージが届いて、応援してくれている人たちの期待に応えたいという気持ちが心の底から湧いてきました。それが今でもモチベーションとして残っています。山本さんも他の仲間も、会ったことのない人も、私を応援し、支えてくれている。それによって自分はトライアスロンを続けさせてもらっているんです。やればなんでもできる、やらなければなんにもできない。当たり前のことだけど、本当にこれに尽きると思いますね。

【商品Pick up】UTA SUPLI を飲みはじめて―

(山本)UTA SUPLIは毎晩寝る前の摂取を基本とし、トレーニング強度が高く疲労感が強い場合はトレーニング直後にも摂取してます。飲み始めて1年以上になりますが、摂取方法、タイミングなど自分なりに色々試し、今はすごく調子がいいですね。シリカ水のNeutral Waterも合わせて飲んでますが、翌日の疲労の抜け感は明らかに違いますね。 (稲田)UTA SUPLIとNeutral Waterは私の生活のルーティンになっていますね。昨年、怪我したのですが大事に至らず、今もこうやってトレーニングに復帰し、毎日充実した生活ができているのはUTA SUPLIとNeutral Waterのおかげです。思った以上に効果を実感してます。

山本&稲田
山本&稲田

私のタイムスケジュール

山本淳一

スケジュール

稲田弘

スケジュール

私の記録

山本淳一

2023年 エイジ世界選手権 DIV50-54 優勝
エイジ日本選手権 DIV50-54 優勝
2019年 エイジ世界選手権 DIV45-49 優勝
エイジ日本選手権 DIV45-49 優勝
2018年 エイジ日本選手権 DIV45-49 優勝
2005年 アジア選手権 優勝
1996年 スプリント日本選手権 3連覇(1999年〜2001年)
12大会世界選手権出場
10年連続アジア選手権出場
プロデビュー
1995年 トライアスロン世界選手権 初出場 DIV20-24 13位
1993年 トライアスロンデビュー

稲田弘

2023年 石垣島トライアスロン大会 DIV90-94 優勝
2018年 IRONMAN World Championship KONA DIV85-89 優勝 16時間53分ギネス記録
2016年 IRONMAN World Championship KONA DIV80-84 優勝
2012年 IRONMAN World Championship KONA DIV80-84 優勝 15時間38分コースレコード
2011年 IRONMAN World Championship KONA初出場
2002年 トライアスロンデビュー