難しい質問ですね(笑)。ただ、トライアスロンが私の人生を構成する重要な要素であることは間違いないですね。コロナ禍以前は、毎月どころか6、7月のピークシーズンにはほぼ毎週のようにレースに出場していたので、年間10レース以上は走っていました。最近はコロナの影響でレースの中止や延期が相次いでいますが、ここ数年は年初にエントリーするレースや参加したい合宿を予め決めてスケジュールを埋めてから空いたところに仕事を入れるようにしています。というのも、私は昔からワーカホリック的なところがあり、仕事に没頭してしまうと周りが見えなくなり身体を壊すくらいまでやりすぎてしまうので、私にとってトライアスロンは身体と心の健康を保つうえでとても重要なんです。
また、私の会社では週一回経営幹部が集まり、走りながらミーティングをする“ランミーティング”をやっています。運動というのはポジティブな身体の動作で、人間はポジティブな身体の動作中にネガティブなことは考えないんですよ。だから、ランミーティングは会議には最適な環境なんですよね。もちろん、そのミーティングに参加している経営幹部の多くがトライアスリートであることは言わずもがなですね。
29歳で独立してから30代最後の年を迎えるまで、私の生活の中心にあったのは仕事でした。極端な話ですが、仕事以外では一切エネルギーを使いたくなかったので、“すぐそこ”へ行く時ですらタクシーに乗るというような生活をしていました。ストレス解消といえば夜にお酒を飲むぐらいで、とにかく1日24時間365日、全エネルギーを仕事に注いでいましたね。30代前半は、その若さもあって健康に対する意識も低く不摂生な生活を送っていても気になりませんでしたが、30代後半からその意識が少しずつ変化していきました。仕事で常に高いパフォーマンスを発揮できる状態を維持するためには健康習慣が必要だと考えるようになったんです。そこで、40歳を目前にマラソンを始め、その先にあったのがトライアスロンでした。トライアスロンを始めたのは私が44歳の時ですので、今から13年ぐらい前になりますね。当時、経営者の間でトライアスロンが流行っていて、そのような世界があることを知った私は少なからず憧れを抱いていたんです。そんな時、ビジネスシーンで実際にトライアスロンをやっている方と知り合い、その方と話をしていくうちに「私も挑戦したい」という衝動に駆られ、翌年のロタトライアスロン* でのデビューを決意したのが、トライアスロンを始めたきっかけです。
* ロタ・ブルートライアスロン大会、北マリアナ諸島ロタ島を舞台に2017年まで開催
とにかくゴールが果てしなく遠く感じたのを覚えています。実は、トライアスロンへの挑戦を決意した当時、私は息継ぎもうまく出来ず50mすら泳げなかったんです。まずスイムスクールで水泳の基本動作を学ぶところから始め、レースまでの約1年間で何とか泳げるようになりました。実際のレースではスイムパート1,500mを53分かけて泳ぎ切り、その後バイクパートを経て、最後のランパート10kmはロタトライアスロン特有のジャングルコースを走ったり歩いたりを繰り返しながら、どうにかゴールへ辿り着くことが出来たという感じでしたね。初めてゴールしたあの瞬間の達成感は、それまで続けていたマラソン、まして仕事では味わうことのできない、とても新鮮な感覚でしたね。
2011年、私が47歳の時ですね。チャレンジの舞台は西オーストラリアのバッセルトン* 。15時間15分31秒をかけて完走することが出来ました。ゴールした瞬間はこれまで感じたことのないような感謝の気持ちが沸き上がり、ゴールゲートをくぐると無意識にコースを振り返って深々と頭を下げていましたね。足を止めずにゴールできたのは、チャレンジを共にしたトライアスロン仲間、サポートスタッフ、現地ボランティアや声援を送ってくれた沿道の人たちなど、多くの支えのおかげです。
そして、実はその先にもエピソードがあるんです。意識が朦朧とし、ふらふらな状態でゴールした直後、私は救護ステーションに運び込まれました。あとで知りましたが、極度の脱水でレース前に71kgあった体重は63kgまで落ちていたんです。すぐに治療が必要な大変危険な状態でしたが、救護ステーションには治療を待つ選手がズラリ、私はその外で息も絶え絶えに横たわっていました。そんな私のただならぬ雰囲気を察知したトライアスロン仲間が、救護スタッフにカタコトの英語で治療の緊急性を訴えてくれたことですぐに治療を受けられ事なきを得ましたが、それがなかったらと思うとゾッとしますね。その時の彼の行動には今でも感謝していますし、トライアスロン仲間のありがたさを改めて実感しました。
* IRONMAN Western Australia,Busselton
2018年はオーストラリアのゴールドコースト* 、2019年はスイスのローザンヌ* と、2年連続で出場しました。ここ数年はアイアンマンレースのようなロングレースからは少し離れ、総距離51.5kmで競うオリンピックディスタンスをメインに転戦しています。その中で国内の主要大会で上位入賞を果たし、ポイントランキングによって日本代表選手として選出されました。コロナの影響で、昨年、今年と開催されるレースが少なく、海外レースにも行けませんが、今は再開された時のために日々トレーニングを積み、準備しています。トライアスロンを始めて14シーズン目、そしてこのコロナ禍においても、私のトライアスロンへの情熱は変わらないですね。
* ITU World Triathlon Grand Final
オリンピックディスタンスにおける世界最高峰の大会
* 2018 ITU World Triathlon Grand Final Gold Coast
* 2019 ITU World Triathlon Grand Final Lausanne
まずひとつは、トライアスロンを通して広がる人との出会いですね。私がトライアスロンと本気で向き合うようになったのもトライアスロンチーム“Alapa”の一員になってからです。それこそ、アイアンマンレースへの挑戦を決意したのもAlapaへの加入がきっかけでしたね。Alapaメンバーの他にも多くの出会いに恵まれ、まるで同じ遊びをする子供たちのように、仕事などの利害関係を抜きに付き合える友人がたくさんできました。トライアスロンを通して純粋で気楽な付き合いができる人と出会えるというのは大きな魅力ですね。
そしてもうひとつは、トライアスリートとして自分自身の成長を日々実感できることです。先程もお話しましたが、私は50mもまともに泳げないところからスタートしました。もちろん最初は、私がスイムアップする頃にはトランジッションエリアにはバイクがほとんど残っていませんでした。それがトレーニングを重ね、レース経験を積んでいくと徐々に景色が変わっていくんです。トランジッションエリアに残っているバイクの数が目に見えて増えていったり、また自己ベストを更新出来た時は、アスリートとしての進化を感じ、とても嬉しいですね。
私は地元、鳥取大学の医学部を卒業し医師になりました。同級生の多くが地元を離れて東京などに進学するなか、私は自宅から通える範囲で進学してほしいという親の意向もあって地元の大学へ進学しました。もっと広い世界を見たいと強く思うようになったのは、その時からかも知れません。研修医時代は循環器内科へ入局したのですが、それもアメリカ留学できるという理由が大きかったですね。ただ、入局後に留学費用は自費ということを知り、研修医の安い給料では捻出できなかったので、泣く泣く断念しましたが。そんな時に出会ったのが美容外科でした。当時の美容医療は全く新しい分野だったので、実力次第で若くても成功できると言われていたんです。そして私は、広く自由な世界を求めるように美容外科医へ転身しました。
大学の医局を離れ美容外科クリニックへ就職し数年後、私が29歳の時に福岡で開業しました。今振り返ると恐ろしくもあり、愛おしくもあるのですが、当時の私は“金なし、コネなし、経験なし”、唯一あったのは『情熱』だけでした。当然ながら、開業にあたって必要な事業計画書などを作ったこともなく、参考書を見ながら必死に作成したのを覚えています。その事業計画書を片手に銀行に融資を頼みに行ったら、窓口の女性に“けんもほろろ”に断られ、違う銀行に行ったら融資担当の方から「おもしろい計画ですね。頑張ってください」と苦笑いされました。
また、美容外科業界では広告が極めて重要なのですが、広告代理店に相談に行ったら全く相手にされず散々でしたね。でも、当時の私は恐ろしいほどのプラス思考。こんなこともありました。開業準備中にも関わらず、近所の大手百貨店内にある某有名化粧品会社の販売員さんに「すみません。今度、この近くで美容外科クリニックを開業するんですけど、御社と業務提携したいと思いまして。商品開発担当の方と繋いで頂けませんか」とアポなし営業もしましたね。ちなみに、これは余談ですが、この十数年後にその会社から出資したいとの申し入れを受けました(笑)。
そのような私を知ってか知らずか、地元で小さな設備業を営む父が「まぁ、おまえが失敗すれば自宅がなくなるだけだ」と言って、実家を担保に地元の信用金庫から創業資金として数千万円の融資を引き出してくれ、その資金をもとに第一歩を踏み出すことができました。
初めて患者さんから予約が入ったのは、開院の1週間後でした。創業スタッフ4人と日本一のクリニックを目指し開院したものの、初めての患者さんが来院されるまでは、「この地域で最も人口密度が低い空間かも」と悲観的に思えてしまうほど院内は静まり返り、重い空気が漂っていましたね。結局、開院した月の患者さんはその方一人。記念すべき売上は38万円でした。今でもその患者さんのお名前は忘れられません。
翌月も患者さんは数名程度、赤字は膨らむ一方で、通帳の残高がどんどん減っていく恐怖に苛まれる日々が続きました。過度なストレスで10本の指の爪全てに穴が空いてしまう形成不全も発症しました。爪の穴は通帳の残高と反比例するかのように日に日に大きくなっていきましたが、とにかく当時は毎日明るく気丈に振る舞っていましたね。とはいえ、じりじりと資金は減り続け、「何か手を打たないと」と思っていた矢先、広告効果が高い雑誌掲載の提案を受けました。それを実行すれば、向こう数ヶ月分の手元資金は一気に底を突くことになるのですが、私は思い切って勝負に出ました。『勝負に負けたら舌を噛んで死のう』とそんなバカなことも本気で考えていましたね。でも、私はその勝負に勝ったんです。
その広告が出た翌日からスタッフ全員が電話対応に追われ、手術は深夜0時を超える日が続きました。電話対応がスタッフだけで間に合わない時は私も慣れない電話対応をしました。結果的には、電話で少し噛んだぐらいで死なずにすみました(笑)。このようにして本格的に立ち上がったのは開院3ヶ月後でしたね。
はい。29歳で開業してから11年間必死に走り続け、大きなクリニックグループとして育てあげた事業を売却しました。当時、業界的にもかなり驚かれましたが、少しゆっくりしたいという思いもあり決断しました。ちなみに、仕事をやめて最初にやったことは、プレイステーションでゲームをすることと、その時に流行っていた海外ドラマ『24』の全巻一気見でした(笑)。それまでは時間が無くて出来なかったのですが、どちらもどうしてもやってみたかったことでした。でも、実際やってみたら一週間ぐらいで飽きてしまいましたね。周りのみんなが仕事しているなか私だけが仕事をしていないことに違和感があり、変な喩えですが、ボードゲームで先に自分があがり、他の人を待っている退屈な状態になってしまったんです。やはり私は仕事が好きというか、ワーカホリックなんですよね。結局、その後、仕事を再開し、今は再生医療など様々な事業に携わっています。
『起きた出来事への意味付けが人生の質を決める』これは、私が29歳で独立し39歳で事業売却するまでの11年間で学んだことです。この間には語り尽くせないほど様々なことがありました。出来事はもともと意味を持って生じるものではありません。その意味を選択するのは自分自身です。出来事はコントロールできませんが、その意味付けはコントロールできます。事業を経営していれば、“人、モノ、金”にまつわるネガティブに思える出来事も次々と生じますが、『大切なことは、そこから何に気づき、何を学ぶか』だと私は思っています。学んだ結果が、その人の考え方や哲学となり、行動が変わっていくのです。
コロナ禍においても、私は『人生で最悪に思える出来事は、その後の人生の最良のきっかけになることが多い』と常に前向きに毎日を楽しむようにしていますね。
これまで疲労回復や二日酔い予防など、その効果を実感できるサプリメントはありませんでした。サプリメントは薬ではないので効果効能を謳うものではありませんが、UTA SUPLIは必須アミノ酸、非必須アミノ酸のバランスが極めて良く、またそれが自然の素材で補えるのは非常に魅力的です。カプセル状なので非常に飲みやすく、毎日常用しています。また、トレーニング合宿やレースなどにも必ず持っていく必須アイテムです。
2021年 | IRONMAN70.3 Hawaii |
---|---|
ITU世界トライアスロンシリーズ横浜大会 | |
石垣島トライアスロン大会 Age Group 3位 | |
2020年 | IRONMAN70.3 Japan Age Group 2位 |
九十九里トライアスロン Age Group 2位 | |
水郷潮来トライアスロン Age Group 4位 | |
2019年 | 日本エイジグループトライアスロン選手権 Age Group 6位 |
九十九里トライアスロン リレーカテゴリー優勝 | |
IRONMAN70.3 World Championship Nice | |
ITU世界エイジグループ・トライアスロン選手権 | |
Ironman70.3 Cebu | |
太平洋トライアスロン in いわき Age Group 4位 | |
IRONMAN70.3 Japan Age Group 2位 |