今の私を知っている人には信じてもらえないかも知れませんが、昔は内気な少年だったんですよ(笑)。というのも、私は成長が遅くて高校1年生で身長150cm、しかも変声期も終わっていないという状態。中学時代はバスケットボールをやっていたのですが、高校に入ってからは身長が低いという理由でバスケットボールは諦めハンドボール部に入ったんです。ただ、そのハンドボールも体力的に続けることができず早々に辞めてしまいました。
私は地元愛知の中学を卒業し、高校からは親元を離れ京都で下宿生活をしていたのですが、授業が終わると早々に下宿に帰り、部屋の窓から見える比叡山の絵を描いたりしていましたね。ですから、高校時代は友達が少なかったですし、たぶん高校の同級生で私のことを覚えている人はほとんどいないと思います。まさに、内気な田中少年といった感じでしたね。
数少ない友達のひとりから「水泳部に入らない?」と誘われたんです。その彼は水泳部員だったのですが、たまたま何かのきっかけで彼と一緒にプールへ行ったら私の方が断然速かったんですよ。水泳を習っていたわけではないのですが、幼少期から泳げる環境が身近にあったこともあり、水感があったんだと思います。それで、高校2年生の冬に入部し本格的に水泳を始めた数カ月後、高校3年生の夏に出場した京都府大会で3位になりました。すると後日、学校で全校生徒の前で表彰され、同級生からは本当にびっくりされましたね。この時に初めて人前で目立つことに快感を覚えました。これが“目立ちたがり屋な私”の原点かも知れませんね(笑)。
私が通っていた高校は中高大一貫校で、高校水泳部と大学水泳部が同じプールで練習していました。大学水泳部は関西学生選手権で何度も優勝している名門水泳部。高校3年生の時から大学水泳部の先輩に誘われていたこともあって、大学でも水泳部に入りました。そして、大学4年生の時には、キャプテンとして全日本学生選手権で創部以来最高順位となる3位に導くことができました。
大学を卒業し就職してからは、他のことには目もくれず、とにかく仕事一筋でしたが、30歳の時に勤めていた会社が倒産してしまったんです。そこで、時間もできたしダイエットにもなればと水泳を再開しました。そして初めて出場したマスターズ水泳大会で1,500mの日本新記録を出しました。その後も400m、800mと、マスターズ水泳大会では3種目で日本新記録を樹立させました。
私の人生の原点は水泳にあるのかも知れませんね。水泳は、高校時代には影が薄かった田中少年を全校生徒の前に引き上げてくれましたし、大学時代にはキャプテンとして組織マネジメントを経験することができ、後の仕事にも良い影響をもたらしてくれました。また、マスターズ水泳大会では自分の更なる可能性に気付かされました。いま改めて振り返ってみても、要所要所で水泳が私の人生を良い方向に導いてくれたと思います。
トライアスロンを始めたのは38歳の時ですね。
当時、琵琶湖で開催されていたアイアンマンレース* の実況中継を見ていたら、スイムトップであがってきた選手が大学時代のライバル選手だったんです。見ていてとても刺激を受けましたね。学生時代から走ることにも自信があったので、トライアスロンをやってみたいと思いましたが、その時は自転車を持っていなかったので、すぐにはチャレンジできませんでした。
* IRONMAN JAPAN IN LAKE BIWA(1985~1997年にかけて開催)
そうなんです。バイシクルクラブからロードバイクをもらってトライアスロンを始めることができたんです。
当時、小学3年生だった息子と“夏休みの冒険”と称して、その時住んでいた東京多摩川の河口周辺から奥多摩までの100kmを走ったんです。私はママチャリ、息子はギアチェンジのない子供用自転車で。麦わら帽子をかぶり、釣り竿やスケボーを積んで意気揚々と出発したのですが、お盆の時期にも関わらず宿も取らずに行ってしまったので奥多摩で宿泊難民になってしまいました。当然ながら当時はスマホなんてなかったので、近くの公衆電話で電話帳片手に必死に宿を探し、日が沈み始めるころ奥多摩のさらに奥地に一部屋だけ空いている宿を見つけました。ただ、そこからが大変でした。激坂を親子二人それぞれの自転車を押して登り、途中には岩肌むき出しでいかにも幽霊が出そうな長いトンネル、息子はその恐怖と疲れで泣き出す始末。なんとか宿にたどり着いた時はホッとしました。まさに冒険でしたね。翌朝起きると、窓からは真っ青な空と緑が映える山、本当に綺麗でした。息子と奥多摩の川で泳いだりして夏休みを満喫しました。そして帰りも当然ママチャリ&子供用自転車で自走です。帰りも行き同様に宿を取っていなかったので、八王子あたりのラブホテルに泊まったのですが、家に帰ると息子が「僕たち、ベッドが回転するホテルに泊まったよ!」って家内に話してしまって・・・(笑)。すると、この話が「おもしろい」と知り合いを通してバイシクルクラブの編集部に伝わり、私にロードバイク、息子にマウンテンバイクをプレゼントするから取材させて欲しいと言われ、もちろん快諾しましたね。こうして私は念願のロードバイクをゲットすることができたんです。思い返せば、この冒険がなかったらロードバイクを手にすることもなく、トライアスロンをやっていなかったかも知れないですね。
* 隔月刊発行している自転車専門雑誌
ロードバイクをゲットしたのが37歳。納車されたその日に甲州街道を通って山中湖まで行き、帰りは国道246号線を厚木経由で戻ってきました。途中、雨にも降られましたが、当時から怖いもの知らずで、その日一日だけで280km走りました。その姿をたまたま当時の部下に目撃されていたようで、翌日職場へ行くと、「田中さんが246を鬼の形相で自転車漕いでた!!」と噂になっていました(笑)。
トライアスロンデビューは愛媛県の中島トライアスロンでした。そして、2戦目には当時から有力選手が多く出場していた湘南ハーフトライアスロンにチャレンジしました。実は、デビュー戦で得意とするスイムでバトルに巻き込まれ、若干スイム恐怖症になっていたのですが、2戦目のスイムは後続の選手に5分以上差をつけての断トツトップ。バイクとランは補給不足でハンガーノックになりつつも、最後まで全力で走りきり、総合8位でゴールすることができました。湘南ハーフトライアスロンは全てボランティアで運営されている、いわゆる“草レース”で、補給食は身内が準備するのがルールだったのですが、家内と子供は私がバイクスタートしたら帰ってこないと思って、私の補給食を持ったまま近くのファミレスで待機していたらしいです(笑)。
もともとスイムには絶対的な自信があったので、伸びしろがあるバイクを強化すれば『必ず勝てる!』とは思っていましたが、この湘南ハーフトライアスロンで総合8位に入り、それが確信に変わりましたね。その6年後、1999年に開催されたIRONMAN Floridaで年代別5位に入り、翌年IRONMAN World Championship* に出場することができました。ちなみにIRONMAN World Championshipにはこれまで8回出場しています。また、宮古島ストロングマン* には1994年開催の第10回大会、そして1998年の第14回~2019年の第35回大会まで22年連続で出場しています。
* ハワイ島コナで開催されるアイアンマンアスリート憧れの大会
* 国内屈指の人気大会(全日本トライアスロン宮古島大会)
CEEPOを立ち上げたのは2003年です。現役トライアスリートとして『使用する機材には妥協したくない』という想いが強かった私は、どうしてもカーボン素材100%のトライアスロン専用バイクが欲しかったんです。
というのも、38歳でトライアスロンを始めたばかりの頃はロードバイクをベースにカスタムメイドされたクロモリバイク* が主流。当然、私もクロモリバイクに乗っていましたが、数年後、新しく開発されたトライアスロン専用バイクに乗り換えたらタイムを大幅に更新することができ、トライアスロン専用バイクの必要性を強く感じていました。また、当時はバイクフレームがアルミ素材からカーボン素材へと徐々に移行していく過渡期でした。カーボン素材の良さとトライアスロン専用バイクの必要性にいち早く気付いた私は、どうしてもカーボン素材100%のトライアスロン専用バイクを作りたいと思いました。ただ、当時の私は自転車製造に関わったことなど一切なく、もちろん知識も全くありませんでした。そもそも、“クランク”や“リアディレーラー”という自転車パーツの名前すら知りませんでした。とにかく、持っていたのは現役トライアスリートとして『使用する機材には妥協したくないという強い想い』でした。その情熱だけで48歳の時に脱サラしてCEEPOを立ち上げました。
* 炭素鋼にクロムとモリブデンを配合した合金。加工しやすいため、昔から自転車素材に使われている
CEEPOバイクの記念すべきデビューは、2003年11月のサイクルモードインターナショナルという展示会でした。自転車業界の右も左もわからない私は、とにかく全国のバイクショップへ直接訪問して情熱とともにCEEPOバイクの良さを伝えたいと思い、その展示会が終わるとすぐに展示車をライトバンに積み込み全国行脚を始めました。まず東京から青森まで北上し、そこから鹿児島まで、全国80軒以上のバイクショップを巡りましたね。「来なくていい」と断られることも数え切れない程ありましたが、その中でも40件以上の受注をいただきました。今も厚意にしていただいているバイクショップはその当時からのお付き合いです。
CEEPOを立ち上げてからの数年は本当に大変でしたね。サラリーマン時代と違って収入は不安定、しかも開発費や宣伝広告費に多額の資金が必要だったので、家計は火の車状態。知り合いのメガネ屋さんでアルバイトし、日銭を稼ぎながらCEEPO事業の運営に奔走していた時期もありました。そして、何よりもうちの家内には助けられましたね。縁あって、専業主婦だった家内が某ブランドショップの売場責任者に抜擢され職場復帰し、当時の田中家の家計を支えてくれました。今のCEEPO、そして私があるのは家内のおかげです。
数年前、バイクトレーニングで琵琶湖を走っていた時、『世界中からトライアスリートが集まるレースをここ琵琶湖でやりたい』と思ったんです。琵琶湖の雄大な自然、絶好のロケーション、そして地域の皆さんのホスピタリティ、これら全てが揃っているこの場所であれば世界一のトライアスロンレースを作れるという自信もありました。そう思った私はすぐに企画書を作成し守山市役所へ直談判しに行きました。すると、守山市役所の皆さんに私の想いが伝わり共同プロジェクトが始まりました。昨年第1回大会を無事開催することができ、今年の第2回も開催予定です。この大会は、安全を第一に、全員が完走し、選手だけでなくボランティアや地元の皆さん、全ての人が主役になれる大会を目指しています。
私はトライアスロンを生涯スポーツだと考えています。過去80以上のレースを走っていますが、これまで100点満点のレースはなく常に課題が見つかります。だからこそ、その課題を克服し、次またチャレンジしようと思い続けられるところが魅力の一つだと思います。また、トライアスロンは記録や順位よりも“完走すること”が評価されます。同じ条件のもと、年齢や性別、境遇、そして体力差を越えて自分の限界に挑戦するというところも魅力ですね。昨年Biwako Triathlon in Moriyamaにおいて83歳でトライアスロンデビューされた選手がいますが、その方のようにトライアスロンへの挑戦が日本社会の新しい活力になれば嬉しいですし、私もその一助となれればといつも思っています。
Reboot Style商品には開発者の情熱が強く込められています。これは《妥協する事なくトライアスリートにとってベストな商品を開発、供給する》というCEEPOの企業理念に通ずるところがあり、私自身、大変共感しています。実際、私含めて多くの愛用者がその効果を実感しているというのは、商品に開発者の想いがしっかり込められているからなのかも知れませんね。
主要戦歴 | (トライアスロン合計:83回*2022年4月現在) IRONMAN:14回、IRONAMN70.3:20回、IRONMAN WC:8回 |
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2018年 | IRONMAN World Championship |
2017年 | IRONMAN World Championship |
2013年 | IRONMAN World Championship |
2011年 | IRONMAN World Championship |
2006年 | IRONMAN World Championship |
IRONMAN New Zealand(KONAスロット獲得) | |
2005年 | IRONMAN World Championship |
IRONMAN New Zealand(KONAスロット獲得) | |
2001年 | IRONMAN World Championship |
IRONMAN New Zealand(KONAスロット獲得) | |
2000年 | IRONMAN World Championship |
1999年 | IRONMAN Florida (KONAスロット獲得) |
1998年~2019年 | 第14回~第35回宮古島トライアスロン大会(22年連続) |
1994年 | 第10回宮古島トライアスロン大会 |
1993年 | 湘南ハーフトライアスロン 総合8位 |
1992年 | トライアスロン中島大会 |