竹内鉄平

父の走る姿に感動、それが私の原点

― トライアスロンを始めたきっかけは?

1985年に開催された第一回宮古島トライアスロンの出場選手241人の中の1人が私の父でして、また同じ1985年に開催されたIRONMAN JAPAN * も父は走っているんです。なので、トライアスロンは幼少期から身近な存在でした。私も3歳から水泳を始め、小学校から大学1年生までは競泳メインでやっていましたが、競泳では県大会で予選落ちするぐらいの成績でした。一方で、父の影響で小中学生時代に参加していたキッズ・ジュニアトライアスロン大会では、競技人口が非常に少ないということもあって、いつも上位入賞、時には優勝するなど好成績だったので、とにかく当時からトライアスロンは楽しかったですね。そんなトライアスロンと真剣に向き合い始めたのは、大学1年の後半です。水泳部を辞め、昔トライアスロンをされていた教務課の方に力添え頂き、トライアスロン同好会“南山大学鉄人会”を立ち上げました。同好会といっても当時所属していたのは私だけでしたので、主には個人活動でしたが、“トライアスロンやっていて、しかもバイクジャージで授業を受けている変なやつがいるぞ”、と噂が広まり、少しずつ仲間も増えていきました。また、積極的に他大学にも出向き、練習や合宿に参加させてもらったりしていました。大学3年生のときには、日本学生トライアスロン選手権で上位入賞し、アジア選手権やワールドカップの日本代表にも選出されました。
話が前後してしまいますが、宮古島や琵琶湖で、長い時間をかけてとてつもなく長い距離を走りゴールを目指す父の姿は、今でも鮮明に覚えています。私も幼かったので、当時の他の記憶はあいまいなのですが、その光景だけはずっと残っているんです。それだけ感動したんでしょうね。もしかしたら、それが私のトライアスロンの原点なのかもしれませんね。
* IRONMAN JAPAN:1985~1997年 滋賀県琵琶湖周辺にて開催

実業団選手としてオリンピックを目指す日々

― 大学卒業後も実業団で競技生活を続けられたそうですね

そうですね。ちょうど私が大学を卒業するタイミングでアラコ株式会社(現:トヨタ車体株式会社)がトライアスロン競技部を立ち上げるとのことで、愛知県内の有力選手を探していて、実業団選手の一期生としてスカウトされました。私が入社したのはシドニーオリンピックを翌年に控えた1999年。当然ながら、会社からはオリンピック日本代表入りを期待されていましたし、自分自身もそれを目標にしていました。今思い返しても、あの時期のトレーニングが一番きつかったかなと思うぐらいハードでしたね。その甲斐もあって、2000年のトライアスロン日本選手権では2位と結果を残すことができ、シドニーオリンピック日本代表の最終候補5人に残りました。ただ、これまでの実績等が加味され、正選手として選出されたのは、西内洋行 選手、小原工 選手、福井英郎 選手の3名で、残りの2名は補欠となり、そのうちの1名が私でした。

― 次のアテネ五輪に向けてはどうでしたか?

シドニーオリンピックで補欠だったことで、“アテネオリンピックこそは”という強い想いがありました。だからこそ、アテネを目指す日々はそれまで以上に苦しかったですね。シドニーを目指していた時期を含め、入社後3年間はトントン拍子に結果がついてきたのですが、4年目以降は怪我や故障もあって思うように結果を残すことができず精神的にもきつい日々が続きました。結局、アテネオリンピック日本代表選考では、候補選手10名までは残りましたが、そこから先には進めませんでした。今思うと、私はオリンピックに出ることを目標にしていましたが、実際に日本代表に選出された選手は“オリンピックで勝つ”ということを目標にしていたのだと思います。当時の私はオリンピック選考という熾烈な争いの中で、オリンピックというものを確固たる目標として、自分自身の中で完全に消化しきれていなかったのではないかと思います。

戦力外通告を受けアルバイト生活へ

― アテネ五輪選考後に戦力外通告を受けたそうですね

はい。入社5年目、27歳のときでした。当時、トライアスロン世界選手権にエントリーできるぐらいのランキングにはいたのですが、シドニー、アテネと2度のオリンピック選考に落ちた私は、会社からフルタイム社員への転向指示を受けました。事実上の戦力外通告ですよね。オリンピック出場が絶対的な目標であった会社にとって、私は選手としての戦力ではなくなったわけです。実業団選手にとって会社が求める成果は絶対的。掲げられた目標に対して結果を残せなければ戦力外通告を受ける。それくらい実業団ってシビアな世界なんです。

― 戦力外通告を受けた後は?

フルタイム社員として車体設計の部署に配属され事務アシスタントの仕事をしていました。実業団選手として戦力外通告を受けたからといって会社を辞める必要はないのですが、私はどうしてもトライアスロンへの想いを諦めることが出来ず、フルタイム社員へ転向後、約半年で退職しました。何か伝手があって退職した訳でもなく、また当時の私には既に家族がいたので、とにかく必死でしたね。練習場としてお借りしていた三好スイミングアカデミーにお願いし、早朝の朝スイム指導からシニアマスターズスイムの指導、そして午後はキッズスイムの指導とスイミングスクールでのアルバイトをやらせてもらい何とかして生活してましたね。

不安の先に見据えていた将来像

― アルバイト生活に不安はなかったのですか?

不安が無かったといえば嘘になるかもしれませんが、当時の私はその先を見据えていました。というのも、2000年にオーストラリア遠征へ行った際に、現地のトライアスロンスクールで、キッズからシニア、エリート選手までもが早朝から楽しそうに練習する様子を見てカルチャーショックを受けたのと同時に、これは日本でも絶対ビジネスになるという確信に近いものを感じていたからです。この経験があったからこそ、不安な中でも自分の将来を信じて頑張れたのだと思います。

― 株式会社トライアーティストの設立の経緯は?

お世話になっていた三好スイミングアカデミーで私は、朝スイムを中心に“三好トライアスロン倶楽部”を作り、独自に会員数を増やす取り組みをしていました。始めたばかりのころの会員数は20人ほどでしたが、5年ほどかけて80人程度まで徐々に増えていきました。この取り組みを始めて8年が経過した2012年に《ライフスタイルとしてのトライアスロンをより多くの人に楽しんでもらいたい》という想いのもと、三好スイミングアカデミーから独立させていただきました。その際、長年お世話になった社長に私の想いをご理解いただけたことはとても嬉しかったですし、今でも感謝しています。
このような経緯で、2012年に独立と同時に株式会社トライアーティストを設立し、“三好トライアスロン倶楽部”を“あすたまトライアスロンスクール”へと名称を変更しました。

アスリート魂=あすたま

― あすたまトライアスロンスクールはどんなスクールですか?

実はスクールのあり方も徐々に変化しているんですよね。スクールを始めた2012年から3~4年ほどは若干尖った集団でしたね(笑)。私自身、今もプレイングコーチとして選手活動を続けていますが、【当時は】自分自身の練習への意識が高くなり過ぎてしまい、スクールというよりも“お互いに競い合うだけの集団”になっていました。当然、メンバーさんは強くガチな人だけに偏ってしまっていました。また、常に私が先頭を走り、時にはバイクでちぎってしまうこともあったので、「あそこはレベルが高すぎる」とか「ちゃんと指導してもらえない」などとも言われていました。でも、当時はそれが自分のスタイルだと思っていたんです。
ただ、あすたまトライアスロンスクールを主宰して5年ぐらい経過したぐらいの時期に気付いたんですよね。このやり方では、トライアスロンの真の意味での普及には繋がらないということに。私は自分が凄く好きなトライアスロンを一人でも多くの人にその魅力を伝え、教え、やって欲しいと思っているんです。だから数年前からスクールの運営方法を少しずつ変えていき、今では初心者からエリートまで、そして小学生から70歳以上のシニアまで幅広くメンバーになっていただいてますね。

ライフスタイルとしてのトライアスロン

― スクール運営で意識していることはありますか?

とにかくトライアスロンを楽しんでもらうこと、そして飽きさせないことを意識していますね。人って、同じことの繰り返しだと飽きるんですよね。なので、私は常に変化に富んだメニューを提供するように心がけています。また、トレーニングセッションもライブ感覚を味わってほしいという思いから、メニューは事前に決めるのではなく毎回その場で決めるようにし、メンバーさんには「今日はどんなメニューなんだろう?」と、いつも新鮮な感覚で臨んでいただけるような工夫もしています。また、《ライフスタイルとしてのトライアスロン》ということも意識していますね。レースありきのトライアスロンではなく、スクールでの《トレーニングセッションこそがトライアスロンの本質》と捉えてトレーニング自体を楽しんでもらえるように考えています。もちろん、自身の実力を試せるよう、定期的にレース形式のセッションも行ったりしています。大事なのは、いかに飽きずに楽しんでもらえるか?だと思っています。新型コロナウィルス感染症の影響で昨シーズンはレースがほとんどありませんでしたが、あすたまトライアスロンスクールは逆に盛り上がってきているので、自分のやってきたことは間違ってはいなかったな、と改めて思います。

きっかけは「自分がやりたいから」

― スポーツイベントの運営を始めた経緯は?

きっかけは単純です。自分が参加したい大会は自分で作ってしまおうというノリですね。最初に企画したイベントは、近所にある一周4.2kmの三好池を使った4時間耐久マラソンでした。4.2kmのコースを何周走れるか?という単純なイベントで、当初はスクールのメンバーさんを中心に100名規模で開催していましたが、2回、3回とやっていくうちに参加者数がどんどん増えていきました。最終的には800名も集まる人気の大会になり、警察や地域住民の方に迷惑をかけてしまうということから、第5回大会を最後に以後の開催は断念しました。ただ、このイベントがきっかけとなり、三重県伊勢志摩エリアでトライアスロンをやれないか?という話をいただいたんです。現地に視察に行くと、あまりのロケーションの良さに感動して『ここでトライアスロンをやりたい!』と強く思いました。そこですぐに企画書を作成し、三重県トライアスロン協会へプレゼン。気づいたらレースディレクターになっていました。ありがたいことに、今では51.5km部門で人気大会ランキング3年連続1位という大人気の大会に成長しましたが、当時はすべてが手探り状態で、ゼロからトライアスロンの大会を作り上げ、運営する大変さを知りました。でもその分、参加者が楽しそうに走っている姿を見たときの感動はひとしおでしたね。
現在は、スマホアプリと歴史・文化遺産を活用したライフスタイル&アウトドア・ナビゲーションという新しいコンセプトのスポーツイベント「フィールドディスカバリーゲーム(FDG)」というものを企画しています。そちらもぜひ皆さんに楽しんでいただきたいですね。

思考の原点は3(トライ)

― 今後の展望は?


まずは私自身が生涯現役アスリートであり続けるということですね。これは私自身のアイデンティティのようなものですので。
㈱トライアーティストとしては、現在社員2人とパート、アルバイトで運営しているのですが、今年4月には初めて新卒社員が入社します。昨年のインカレでは3位入賞、日本選手権にも出場しており、自分がこれまで歩んできた選手兼コーチという実業団スタイルでの入社なのですが、選手のみならず社会人としてもやりがいをもって成長できる環境をしっかりと作り上げていきたいですね。
トライアスロンの“トライ”って“3”という意味ですよね。㈱トライアーティストの事業も、スクール運営、イベントプロデュース、ウエットスーツなどの物販を3つの柱として、それぞれを大事に、また着実に成長させていきたいと思っています。

【商品Pick up】UTA SUPLIを飲みはじめて―

UTA SUPLIの効果には正直自分でもびっくりしています。今までサプリメントを飲んで効果を実感したことはあまりなかったのですが、UTA SUPLIにはかなり効果を感じています。これまでは、朝スイムの後は疲れて眠くなることが多く仕事にも影響してしまっていたのですが、UTA SUPLIを飲んでからはそれが無くなり、集中して仕事に取り組めるようになったことで仕事の効率も上がりましたね。おかげで週末も翌日の仕事のことをあまり意識せずにトレーニングに打ち込めるので、必然的にトレーニングの質も上がり、好循環を生み出してくれていますね。お世辞抜きでUTA SUPLIは今や私のマストアイテムになっています。

竹内鉄平

私のタイムスケジュール

スケジュール

私の記録

2017年 JTUエイジランキング(40-44) 1位
2012年 ぎふ清流国体トライアスロン競技 14位
2008-11年 野尻湖カップ・トライアスロン大会 4連覇
2010年 全日本トライアスロン宮古島大会 10位
2005年 日本ロングディスタンストライアスロン選手権 2位
2000-03年 ITU世界トライアスロン選手権日本代表
2000年 日本トライアスロン選手権 2位
1998年 日本学生トライアスロン選手権 4位