take it easy 予測不能が当たり前。難しさと深みの先にあるトライアスロンの面白さ 白戸 太朗

予測不能が当たり前。難しさと深みの先にあるトライアスロンの面白さ

― 歴35年、通算600レースを走るまでにのめりこんだトライアスロンの魅力って何だと思いますか?

トライアスロンをやってみて最初に感じたのは、他の競技にはない難しさと深みがあるということ。単純な足し算ではないという特性ですね。水泳、自転車、ランニングのそれぞれが得意な人がいても、それだけでは必ずしも最強とは限らない。1+1+1が3にならないという、この独特の深みに面白さを感じました。私がトライアスロンを始めた頃は、幼少期からトライアスロンをやっている人はほぼいなかったです。水泳かランニングの出身者が多かったですね。でも私はスキー出身で関連性は薄かったけれど、やり方次第では彼らと同等に戦えたんです。これって面白いですよね。単純じゃないからこその面白さにハマってしまいました。トライアスロンは3種目複合競技で、当然ながら競技時間も長い。だから圧倒的に予測不能なことが起きる要素が多いんです。全部思い通りにいくことはほぼないというのがこのスポーツの特徴と言ってもいい。予測不能、想定外が当たり前、それがトライアスロンの魅力だと思います。

― 座右の銘は「take it easy」と聞きました

私はこれまでの人生を「take it easy」の精神で生きてきました。トライアスロンに挑むときも一緒です。「take it easy」って、実はいろんな言語でも同じような表現があって、どの言語でも「なんとかなるよ」という意味合いを持つんですよ。韓国語だと「괜찮아요(ケンチャナヨー)」、スワヒリ語だと「hakuna matata(ハクナマタタ)」、フランス語だと「que será, será(ケセラセラ)」、スペイン語だと「hasta mañana(アスタマニアナ)」とかね。日本語だと「なんとかなる」「気楽にいこう」とか、沖縄の「なんくるないさ」もそうですよね。人間が生きていく中で、この気楽さはたぶん必要なメンタリティなんだと思います。生きていると予測不能なことがたびたび起きるけど、そのときに「なんとかなる」と思えるかどうかはすごく重要ですよね。トライアスロンは、思い通りにいくはずがない中で自分がどう考えるか。そういう練習を常にやっている。毎レースがメンタルトレーニングみたいなものです。選手はみんな「なんとかなる」「大丈夫」って自分に言い聞かせながらやっているので、多分それは人生に活きていると思います。

スキー強化のために
始めたトライアスロン

― 学生時代、スキー部に所属しながらトライアスロンを始めたきっかけは何ですか?

私は中高大とスキー部に所属していました。中高は大阪にある同志社香里に通っていましたが、大学はスポーツ推薦で中央大学へ進みました。スキー部は競技期間が短くて、オフの陸上トレーニング期間が長い。大学生でも1年間のうちに競技ができるのは140日くらいしかないんですよ。スキー部と言いながらもメインでやっているのは走り、筋トレ、フィジカルトレーニング。すなわち陸トレ部みたいになるわけです。10年近くそういう生活をしていると、だんだん陸トレに飽きてきてモチベーションが落ちてきます。だから何かモチベーションをぐっと上げられることがないかと思っていたんですよね。私は日野市にある大学の寮にいたのですが、そこは体育会クラブ専用の寮で、スキー部だけでなく、多くのクラブがいました。そこで隣の部屋がたまたま自転車部、その逆側の隣は水泳部だったんです。生活のリズムは違うけど他の部とも交流があって。大学2年生のときにテレビでトライアスロンを見ていたら「太朗もやってみれば?」と友人に勧められたんです。クロカンには上半身、下半身、心肺能力も必要なので、トレーニングにちょうどいいぞと。ただ、自転車も持っていないし買うお金もない。でもやってみたいと話していたら、自転車部がバイクパンツやシューズのお古をくれたり、水泳部が昼休みにプールを使わせてくれたりして、一つずつできるようになっていったんです。大学3、4年生のときにはフィジカルトレーニングの一環として、夏にトライアスロンをやっていました。また、第2回全日本雪上トライアスロンで優勝して、賞品としてロードバイクをもらって、ますますトライアスロンに取り組んでいきました。
*1987年に長野県戸狩スキー場で開催(スノーラッセル、ランニング、クロスカントリーの3種目)

自分の力を限界まで試したい

― 大学を卒業してからは、どのようにトライアスロンを続けていたのですか?

大学卒業後は教員になるつもりで社会科、商業科の教員免許は取っていたのですが、どうしても体育の先生がやりたいと思い直し、さらに、トライアスロンを続けたいという思いがあり日本体育大学に編入したんです。編入後は体育の先生を目指しながら、トライアスロンにも本気で取り組むという毎日でしたね。日々の努力が結果として現れるようになるにつれて面白くなってきて、自分の力を限界まで試したいという思いが強くなりました。とにかく世界に行って戦ってみたかった。そのためには当然、物もお金も必要でした。しかし、当時の私は無名の若手選手。しかもトライアスロンはマイナースポーツ。トライアスロン選手にスポンサーがつくことは稀でした。ですので、自分でスポンサーを獲得するため、多くの会社を回って自分の想いを語り続けました。社会経験もなく右も左もわからなかった私ですが、若さと情熱だけは人一倍でした。徐々に私の想いを汲んでくれスポンサーとなってくれる会社が増え、ロードバイクも提供してもらえるようになりました。当時の私が海外を転戦できたのは、この時のスポンサーからの温かい支援のおかげです。そのようにして、どんどん活動範囲が広がっていきました。

― 日体大卒業後は体育教師とプロ、どちらの道に進んだのでしょうか?

日体大を卒業するときにはすでにプロになっていて、さらにトライアスロンを極めるか、教員になるのかで悩みました。結果として競技を追求するためにもう少し時間を取ろうと、大学院に進んだのです。教員になるのは、競技をあと数年やってからでも遅くないという判断です。そのときちょうどトライアスロンで日本のトップになっていて、千載一遇のチャンスだったし、こんな状況は滅多にないのだからと、そのまま突き進むことにしました。

― 教員になる前段階でのプロという立ち位置に、不安などはありませんでしたか?

大学院に入ったときは、プロトライアスリートとしての収入で全てを賄っていました。それでも正直、不安はありましたよ。同級生たちは銀行や証券会社などに就職して経済的な安定を築いている中、自分はスポンサーからの収入で翌年も分からない生活をしているんですから。でも、自分が本当にやりたいことは何かと考えた結果、今はトライアスロンに取り組むことが一番の選択だと思ったんです。他人の意見や損得に囚われず、本当にやりたいことに正直に向き合い、自分の心の声にシンプルに従うことが重要だと。大学院2年目は最前線で、日本代表として一年間のほとんどを海外に出て転戦しているという生活でしたね。

最も厳しいコースを皮切りに
IRONMANシリーズに参戦

― 初めてのIRONMANレースはどこでしたか?

1996年のIRONMAN Lanzarote(スペイン)*1が私にとっての初アイアンマンレースでした。そこは世界各国で開催されているIRONMANレースの中で屈指の難コースと言われているんです。ウインドサーフィンのメッカとして有名で、とても風が強い中、バイクで大きな山を2つ越えないといけない。火山でできた山なので風は全て吹きさらし、風でどんどん飛ばされる。ガードレールはないし、下に落ちたらやばいという、典型的なヨーロッパのコース。今思うと最初にこんな厳しいコースに出なくてもよかったんですけどね。でもこのレースで11位という結果を残し、その年初めてコナ*2に出場しました。
*1 西アフリカ沖のカナリヤ諸島の一部となっているスペイン領の島
*2 ハワイ島コナで毎年10月に開催されるIRONMAN World Championshipの通称

トライアスロンを極めていたからこそ
できたアドベンチャーレースへの挑戦

― 1999年からアドベンチャーレースに挑戦したのには、どういういきさつがあったのでしょうか?

1995年頃からずっと、アドベンチャーレーサーで旧知の仲の田中正人さんからEAST WINDの一員として一緒にレースに出てほしいと声をかけられていたんです。私は、面白そうだし一度はやってみたいけど、プロのトライアスリートだしメインはトライアスロンだから、一区切りついたら考えると言って流していたんですよ。その後1998年にプロの一線から退くことを決めて、「今後はレース出場だけでなく、トライアスロンの魅力を広く伝えたりする活動をやっていこうと思っている」というコメントが記事で出たとき、それを読んだ田中さんから再度声がかかりました。さすがにこれは逃げられないなと思って、とりあえず1年ぐらいと思って始めたんです。
*アドベンチャーレースにおける国内第一人者である田中正人氏が率いるプロチーム

― トライアスロンとは全く異なるレースへはグッと入り込めたのですか?

自分の新しい可能性を追求したり、自分が知らないことができるので、単純に面白そうだと思いました。当時、ワールドカップで世界ランキング7位になったのですが、私は順位にはあまりこだわっていなくて。でも田中さんは勝負にものすごいこだわっていて、とても厳しかったですね。ただ、僕はプロでトライアスロンをやっていたから、彼の思いや言っている意図がよく理解できました。全身全霊をかけて競技をやってきたので、気持ちの入れ方とかやり方がわかるんです。本気でやってきたからこそ、生きるか死ぬかのような世界でも頑張れるし、追い込める。トライアスロンをやっていたことがすごく活きましたね。

― 種目が多いので苦労されたのでは?

アドベンチャーレースはトライアスロンよりさらに種目が多い。カヤック、ラフティングボート、マウンテンバイク、ウォーキング、乗馬、本当に多種多様です。だから全部は完璧にできないんですよ。私は基礎体力はあるので、ランやマウンテンバイクは一番強かったけど、地図読みは苦手。でもそこは地図読みが得意な田中さんがメインでやってくれた。そうやってメンバーそれぞれが得意な分野で補完し合える良さがアドベンチャーレースにはありますね。そこがトライアスロンにはない面白さ、チームスポーツの面白さだと思います。1年ぐらいと言って始めましたが、なんだかんだで3年やりましたね。その間もトライアスロンもやっていたんですけど。今でも覚えているのは、前の週にモロッコで3日間のアドベンチャーレースに出て、その後日本に帰国しそのままハワイへフライト、その週のIRONMAN World Championshipを走ったことです。今思うとハードですが、そのときはスケジュール上しょうがないとしか思いませんでした。(笑)

スポーツを通していろんな人を
幸せにしたい

― プロの一線から退いた後の夢や目標は何ですか?

1998年に一段落ついたとき、もうその頃にはすっかり体育の先生になることは頭から消えていました。プロトライアスリートとして活動してきて『トライアスロンやスポーツを通していろんな人を幸せにしたい』という思いを持つようになっていたんです。90年代は世界中のいろんなレースに出ましたが、日本と海外のスポーツ観の違いをすごく感じて。日本人はもっとスポーツを楽しむべきで、日々の生活の中にもっと上手にスポーツを取り入れたらもっと健康になり、幸せになると思ったんです。自分がスポーツをやるのはもちろん、面白さを伝えたり、やり方を教えたり、世界で体験してきたことを広めたり、何か体現したいなと。そんなとき、昔一緒に仕事をした方がスポーツ専門チャンネルのJ SPORTS(当時はJSkySports)の立ち上げに際し、私にスポーツキャスターの声がかかったんです。一見関係なさそうな仕事ですが、テレビでのスポーツを伝えるという仕事も、私のやりたいことと繋がると思いました。スポーツを広めること、様々な角度から伝えていくこと。それがスポーツを案内する人=スポーツナビゲーターという仕事であると考えました。

― 2008年にはアスロニアを立ち上げられましたね

アスロニアを立ち上げたのは、ビジネスをしたいというよりも『トライアスロンをもっともっと広めたい』という思いが強かったです。尊敬する経営者の方から「点でやっていても広がりは所詮、点でしかない。面での活動こそが広がりを生むから、本当にトライアスロンを広めたいなら、面でやりなさい」とアドバイスを受けて、その後アスロニアを立ち上げて会社としてトライアスロンの普及を最大のミッションとして活動を始めました。トライアスロンを通じて人々の生活を豊かにすることが目標で、私個人の想いが会社の想いになったという感じですね。

― XTERRA JAPANやIRONMAN JAPANなど、イベント開催は大変だったと思うのですが

XTERRA JAPANには立ち上げ当時から10年間携わりました。私自身、1998年にマウイ島で開催された大会に出て、その過酷でありながらも明るくウィットに富んだスポーツイベントを楽しませる姿勢に魅了されて、日本でも同じような体験を提供したいと思ったんです。スポーツとしての面白さはもちろん、XTERRAが持つ独自の世界観に一番魅力を感じていたんですね。スポーツとしてはトライアスロン以上にマイナーだったし、スポンサーも全くいない。だから、大会運営には個人のお金を相当使っていたので、当時はかなり苦労しましたが、そのおかげで得たものも大きかったです。いろいろな繋がりもできましたし、人生の中の良い時間でした。さらに、IRONMAN JAPAN(北海道)を立ち上げ。大会の規模も大きいので、会社のメンバーにも凄く迷惑をかけたんですけど、みんな一生懸命やってくれて、素晴らしい大会ができたと思っています。点だったらXTERRAが精一杯。面になったからこそやることができたのがIRONMAN。まさに点が面になり広がっていった一つの事例だったと思います。

挑戦しないところに新しいものは生まれない。もっと挑戦するマインドを応援できる国にしたい

― 都議会議員になった今は、スポーツに対してどんな思いですか?

スポーツが自分をここまで成長させてくれて、世界中でいろいろな経験をさせてくれました。だから私はずっとスポーツに恩返しし続けたいと思っています。10年ごとに目標を定めているのですが、40代は、トライアスロンのために生きようと決めたんです。そしてアスロニアをスタートして、トライアスロン業界に貢献してきました。50代は自身の様々な経験を社会にフィードバックしたいなと思っていました。そんなタイミング、50歳になった年に政治家のオファーを受け、東京都議会議員になりました。今は政治家としてできることと、会社としてできることの両方の立場からスポーツに貢献しているつもりです。60代になったらどうするのかは、まだ決めていないんですけどね。(笑)

― 将来の展望は

挑戦しないところに新しいものは生まれない。もっと挑戦するマインドを応援できる国にしたいというのが、今の私の想いです。挑戦すると失敗も山ほどあるんですけど、挑んだ人にしか見えない景色は必ずある。だからもっと挑戦できるようなマインドを、たくさんの人に持ってほしいです。トライアスロンに興味のある人って意外と多いのですが、やる方向に一歩進む人と、言い訳や条件をつけて逃げちゃう人に分かれます。無理する必要はないけれど、興味があるならまず自分の中にあるスイッチを押しちゃうことを勧めます。宣言するなり大会を決めるなり、それが1年後でもいいんです。自分が決断したら、今まで見えなかった新しい景色が見えてきます。僕は今でもトライアスロンをやるし、自分の中で目標を課して、それに挑んでドキドキとか苦しい思いをしている。そういう感覚が楽しくて、生きていると実感できるんですよね。生きているからこそできること、感じることをもっと大事にしたい!多くの人にとってもそうであってほしいと願っています。

朝トレーニングがルーティン

― 政治と会社の仕事で忙しい毎日だと思うのですが、今でもトレーニングは続けていますか?

トレーニングは朝と決めてルーティンにしています。とにかく朝しか時間がないので、5、6時頃から始めて、30分から1時間くらいですね。仕事の都合で朝にできない場合は、もうその日はやりません。朝の習慣が身についているので、朝できなかったらやらないんです。そのくらいがちょうどいい(笑)休日もなかなか取れないのですが、あるときには外に出て、自転車に乗ることも時々なので練習は新鮮です!?

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仕事柄、いや個人的趣向でも飲んだり食べたりする機会が多いので、サプリメントをお酒のリカバリーとして愛用しています。飲んだあとどうやって翌朝までにリカバリーするかがすごく大事なのです。朝練習して仕事して、夜お酒飲んで、1日のスケジュールもずっとパンパンなので、そんな中で朝練習しようと思える身体にどうやって戻すのか。食事や飲み物だけでは賄えないところを、サプリメントに助けてもらっています。薬じゃないので安心して飲めるし、あくまでもサプリを食べ物の一つとして摂取できるのがいいですよね。最初はナマコ?って半信半疑でしたけど、今ではその効果を実感しています。あれ、これって練習リカバリーのサプリなのでその話した方が良かったですか?(笑)

白戸 太郎

私のタイムスケジュール

スケジュール

私の記録

主要戦歴 トライアスロン歴36年・通算出場レース600以上・IRONMAN 世界選手権 23回出場
2023年 IRONMAN World Championship NICE(France)
2022年 IRONMAN World Championship(KONA)
IRONMAN World Championship(St George)
2019年 IRONMAN Taiwan(Taiwan)Age優勝
IRONMAN 70.3 Liuzhou Age2位
2010年
2011年
IRONMAN 70.3 ASIA Pacific Age優勝
2006年 ITU Long Distance Triathlon World Series Subic Bay 2位
1999年~
2003年
Team EAST WINDのメンバーとしてアドベンチャーレースに参戦
1997年~
2019年
IRONMAN World Championship(kona) 19回出場
1997年 IRONMAN Japan (琵琶湖)14位
1996年 IRONMAN HAWAII world Championship 32位
IRONMAN Lanzarote(SPAIN)11位
1996年~
1997年
ITUロングトライアスロン世界選手権日本代表
1990年~
1995年
ITUトライアスロン世界選手権日本代表
1991年 第1回全日本大学トライアスロン選手権(静岡県) 優勝
1987年 第2回全日本雪上トライアスロン戸狩大会(長野県) 優勝